子供の頃、『神戸文化ホール』に、母に手をひかれてよくいきました。
『神戸文化ホール』は、私が生まれたときに開館した、 神戸フィルハーモニックの本拠地の、音楽・演劇用ホール。 すぐ近くの、体育館では新体操に通うときや 読書が好きな母と通った神戸で一番大きな大倉山図書館に行くときには必ず 『神戸文化ホール』の前をとおり、ビル全体に描かれた壁画を日常的に見ていました。 ピンクのタイルベースに、白いマグカップにいけた紫陽花の、 巨大な壁画は、なんだかさみしそうに、こどもごころに感じていました。 『神戸文化ホール』は、『あじさいホール』なんて呼ばれていましたが、 (ものすごくインパクトのある壁画です) あれが、智恵子さんの作品だという事にきづいたのは随分後の事です。 ![]() 高村智恵子さんは、明治19年 5月20日、福島県の裕福な家庭に生まれ、 何不自由なく育ちますが学校を卒業後、反対する両親をおしきり東京に残り、 洋画家を志し太平洋画会研究所に通います。 明治44年 25歳のとき、 平塚らいてうの創刊した女性雑誌「青鞜」で 表紙絵を描き、新進気鋭の女流作家としての道を切り開こうとしていました。 青鞜社の『女の生きていく道』の中で 「男にも自由があるように女にも自由がある。是れが男女を通じてその生活の根本である。 どう考えてみてもこの根本は動かない」と語る等、 『ウーマンリブ』の最先端でした。 一方、高村光太郎氏は、明治37年、22歳のとき、 雑誌『スチュディオ』でロダンの『考える人』の写真を見て衝撃をうけ、 明治39 24歳のときに、ニューヨークにわたり、アカデミー・オブ・デザインに入ります。 その後、ロンドン、パリ、と移り住み、帰国。 先輩を介して光太郎をたずねた智恵子と知り合い、 二人は写生旅行にでかけます。 光太郎は、智恵子と結婚を決意し、当時流行のデカダン(退廃芸術)と決別、 詩集「道程」を自費出版します。 二人は結婚するのですが、 智恵子は妻としての仕事におわれ、制作活動には取り組めませんでした。 夫 光太郎の収入は非常に少なく、 大正7年 32歳のときに父親が亡くなった後は、 夫婦の生活はますます困窮します。 さらに、智恵子の実家が破綻し、一家離散、 生活苦と実家への想いで、精神分裂症の徴候が現れ始めます、45歳の頃です。 自殺未遂をはかり、命はたすかったものの、病状はよくなるどころか、 ますます悪化します。 49歳のとき、自宅療養も困難となり、南品川のゼームス坂病院に入院します。 このころ、病気に良いと病院に薦められた手細工を始めるのですが 入院中、初めて自分のためにあたえられたたっぷりとした時間を使い、 紙絵制作に没頭します。 病状がすこし落ち着きますが、闘病生活の後、亡くなります。 紙絵制作の成果物は、日々の日常を綴った物で すべて光太郎氏への愛の讃歌と言われています。
【ブログ掲載日 2008年10月5日 】 ■粟井理紗子の公式ホームページ(2008.9にアドレスを変更しました) http://awaioffice.com/ **************************************************************************** 【食べ歩きブログ】 フードカメラマン 粟井理紗子の麻布グルメ おいしい料理とお酒 PART1 http://awairisako.blog98.fc2.com/ 【食べ歩きブログ】 フードカメラマン 粟井理紗子の麻布グルメ おいしい料理とお酒 PART2 http://7risako.blog33.fc2.com/ 【姉妹ブログ】こだわり音楽グルメ商品情報 http://blog80.fc2.com/awaioffice/ AWAI OFFICEの連絡先 mail; 7@awaioffice.com **************************************************************************** 写真は携帯電話N904iで撮影しています。 テーマ:絵本・制作・イラスト - ジャンル:学問・文化・芸術 ![]() |
「レモン哀歌」せつないですね。 レモンをがりりとかじった時に思い出すかもしれません、この詩を。 純粋な心を持った人を。 レモン哀歌
小学校の教科書に載っていませんでしたか? 大人になってから読むのと随分と印象が違いますよね。 ![]() |
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